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東京地方裁判所 平成5年(ワ)6843号 判決

原告 橋本光治

右訴訟代理人弁護士 高池勝彦

同 三堀清

被告 東史郎

右訴訟代理人弁護士 椎名麻紗枝

被告 株式会社青木書店

右代表者代表取締役 青木理人

右訴訟代理人弁護士 美作治夫

被告 下里正樹

右訴訟代理人弁護士 椎名麻紗枝

主文

一  被告らは、各自、原告に対し、金五〇万円及びこれに対する被告青木書店及び同下里正樹については平成五年四月二一日から、被告東史郎については同月二〇日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求はいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を原告の、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、別紙一記載1の謝罪広告を、同記載2の方法で、株式会社中日新聞発行の中日新聞に一回掲載せよ。

2  被告らは、各自、原告に対し、金二〇〇万円及びこれに対する被告株式会社青木書店及び同下里正樹については平成五年四月二一日から、被告東史郎については同月二〇日(各訴状送達の翌日)から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、被告らの負担とする。

4  第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告の負担とする。

第二当事者の主張

(請求原因)

一1  被告東は、陸軍第一六師団歩兵第二〇連隊(福知山連隊)第一大隊第三中隊(以下「第三中隊」という)所属の経歴を有し、昭和六二年ころ、別紙二記載1の記述(記述1)を含む「わが南京プラトーン」と題する書籍(書籍1)を執筆し、出版社である被告青木書店は、同年一二月八日ころ、同書籍を発行した。

2  被告下里は、同年ころ、同2の記述(記述2)を含む「隠された聯隊史」と題する書籍(書籍2)を執筆し、被告青木書店は同年一二月ころ、同書籍を発売した。

3  被告下里は、井口和起らと共に、同3の記述(記述3)を含む「南京事件京都師団関係資料集」と題する書籍(書籍3)を編集し、被告青木書店は、平成元年一二月一五日ころ、同書籍を発行した。

4  被告東は、記述2及び3についての情報を被告下里に与えた。

二  被告東は、平成四年一二月ころ、京都府での市民集会において講演を行い、これに基づき、同月二〇日、株式会社中日新聞社発行の日刊中日新聞に同4の記述(記述4)を含む記事(本件記事)が掲載された。

三1  本件各記述は、いずれも、昭和一二年一二月ころ、被告東が所属していた第三中隊(記述4では、福知山連隊)の兵士についてされ、兵士の名について、記述1には「西本」と、記述2及び3には「橋本」と記載されている外、書籍3には、「或る日、橋本分隊長と竜野一等兵がぶらりと宿舎へ帰へって来た。」(二一七真下段)、「第二小隊長は橋本伍長がとる事になった。」(二八三頁下段)及び「橋本分隊長は二十三才の現役下士伍長である。」(二八五真下段)と記載されている。

2  昭和一二年一二月ころ、第三中隊には、「西本」姓の者はおらず、「橋本」姓の者は、原告を含めて数名いたが、歩兵第二〇連隊全体の中でも「橋本」姓の分隊長は原告一人しかおらず、同中隊の「橋本」姓の二三歳の現役下士伍長で、臨時に小隊長を務め、又は被告東と同じ第一分隊に所属していた者は、原告だけである。

四  本件各記述は、いずれも、原告についてされたもので、原告は、本件各記述を掲載した各書籍及び新聞の発行、販売により、社会的評価、信用を害され、損害を被った。原告が被った損害を回復するには、慰謝料として二〇〇万円が相当であり、中日新聞に謝罪広告を掲載する必要がある。

五  よって、原告は、被告らに対し、不法行為に基づき、前記請求の趣旨記載の謝罪広告の掲載並びに慰謝料二〇〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成五年四月二〇日(被告東について)又は同月二一日(被告青木書店及び同下里について)(各訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(請求原因に対する被告東の認否、反論)

一  請求原因記載一の事実は、いずれも認める。

被告東は、書籍2中記述2の部分の掲載について、被告下里又は同青木書店に承諾を与えたことはなく、書籍3については、実名で掲載するとは知らされていなかった。

二  同二の事実は、認める。

被告東は、講演での発言を中日新聞に掲載されることについて全く予期せず、無断で掲載されたものであり、本件記事について責任を負わない。

三1  同三1の事実は、認める。

2  同2の事実中、昭和一二年一二月ころ、第三中隊に「橋本」姓の者が数名いたことは認め、その余の事実は、否認する。

3  被告東は、書籍1において、記述1に係る行為の主体である兵士につき「西本」の仮名を使用し、それ以外に兵士を特定できる階級や所属については記載しなかった。

記述4には、残虐行為が述べられているのみで、行為を行った兵士について特定し得るような記述は何もない。

四  同四の事実は、否認する。

(請求原因に対する被告青木書店の認否、反論)

一  請求原因記載一の事実は、いずれも認める。

被告青木書店は、書籍2については企画と発売を、同3については発行(内容にわたらず、レイアウト、構成、その他総合アレンジメントのみを行う機械的編集及び発売を行うこと)を担当しただけであり、右各書籍の内容について判断する権限を一切有していなかった。

二1  同三1の事実は、認める。

2  同2の事実は、知らない。

3  記述1は「西本」の行為について記述され、書籍1中には、「西本」が原告を指すことを推知させる記載は何もない。

書籍2中には、「橋本」が原告を指すことを推知させる記載は何もない。昭和一二年一二月当時、第三中隊には「橋本」という者が五名おり、「橋本」が原告を指すと特定することができない。

書籍3中の「橋本伍長」、「橋本分隊長」及び記述3の「橋本」の三者が同一であることは、記載の位置関係からは、読者が判断することはできない。また、記述3の「橋本」と原告が同一人物であるかどうかも、昭和一二年一二月当時第三中隊に「橋本」姓の者が五名おり、読者にとって判断することができない。

原告は、昭和一二年一〇月ころから第三中隊の指揮班に所属しており、同年一二月当時、同中隊第三小隊第一分隊に所属していなかった。

三  同四の事実は、否認する。

本件各記述の内容は、兵士が敗残兵の掃討の際に殺人行為を行ったというにすぎず、その行為者の社会的評価を低下させるものではない。

(請求原因に対する被告下里の認否、反論)

一  請求原因記載一の事実は、認める。

被告下里は、書籍1の出版、企画、刊行等には、何ら関与していない。

二  同三1の事実は、認める。

同2の事実は、知らない。

記述2において、行為者は「橋本」と記されているだけで、書籍2には、他に「橋本」が原告を指すことを推知させる事情の記載はない。

書籍3中の「橋本伍長」、「橋本分隊長」及び記述3の「橋本」の三者が同一であることは、記載の位置関係からは、読者が判断することはできない。また、記述3の「橋本」と原告が同一人物であるかどうかも、昭和一二年一二月当時第三中隊に「橋本」姓の者が五名おり、読者にとって判断することができない。

三  同四の事実は、否認する。

(被告らの抗弁)

一  被告東

記述1は、南京事件(日中戦争中、日本軍が南京を占領した昭和一二年一二月ころ、南京城及びその周辺で起こったとされる日本兵による中国人(非戦闘員を含む)の殺戮事件をいう。以下、同じ。)を扱うもので、公共の利害に関する事項を対象とし、被告東は、専ら右事件の真相と責任の所在を明らかにするという公益を図る目的のため、右記述を含む書籍1を公表し、かつ、記述1の内容は、真実である。

二  被告下里及び同青木書店(以下「被告下里ら」という。)

1 記述2は、南京事件を扱うもので公共の利害に関する事項を対象とし、専ら、同事件の実相を描き、あるいは実相探求のための資料を提供するという公益を図る目的のためにされ、被告下里は、書籍2の執筆、同3の編集を、被告青木書店は、本件各書籍の発行又は販売をそれぞれした。

2 記述1から3までの内容は、真実であり、仮に、真実であると認められないとしても、左記事情の下では、被告下里らにおいてこれを真実と信ずべき相当な理由があった。

(一) 右各記述は、被告東が第三中隊に所属していた際に見聞した事実を書き留めたメモ類に基づいて、昭和一五、一六年ころ作成した『東日記』を出典とする。

被告下里及び被告青木書店担当者桜井香は、それぞれ、被告東宅において、『東日記』の原本及び右メモ類を確認した。右メモ類は、大学ノート、便箋の束、事務用箋等形状の異なる八つの束であり、束の中にはメモ紙片が多く挟み込まれ、事務用箋の中に便箋のメモ書きが混在し、地図や中国軍の宣伝ビラ等が折り込まれ、街路に貼り出された檄文、宣伝ポスター等が丹念に筆写されているなど、戦場から持ち帰った原資料であるとの印象を強く与えるものであり、その内容も、一日の戦闘状況を詳述したものや戦闘中の心理状況を細やかに書き留めたもの等極めて写実的であった。

(二) 被告下里は、『東日記』の一部が昭和五七年二月一七日に刊行された「第三中隊史」に掲載され、同中隊関係者に対してその内容が明らかにされていることを確認した。

(三) 被告下里は、『東日記』以外の下級兵士の陣中日記の中にも、南京攻略の過程で、敗残兵の虐殺、虐殺死体及び多数の捕虜の連行の目撃談が多数記載されていることを確認した。

(四) 桜井は、『東日記』の記載の一部が中島今朝吾第一六師団長作成の「中島第一六師団長日記」と呼ばれる陣中日誌の記載と一致していること及び従前の取材により入手していた南京事件当時の同地の写真と内容的に整合することを確認し、南京事件研究の第一人者である元大学教授にも『東日記』の資料価値について意見を聞いて肯定的な回答を得ていた。

(五) 桜井は、郵政省所轄の博物館の資料室において調査し、記述に見られる郵便袋が大人を入れられる程度の大きさであることを確認した。

(抗弁に対する原告の認否、反論)

一  抗弁記載一の事実は、否認する。

二  同二1及び2の事実は、いずれも否認する。

三1  記述1から3までは、いずれも南京事件の実相とは程遠い全くの虚偽であり、公共の利害に関する事項についての記載といえず、また、被告らに、右記述の著述、公表等について公益を図る目的があったとはいえない。

2  以下の事実の下では、被告下里らにおいて本件各記述を真実と信ずべき相当な理由があったとはいえない。

(一) 被告東が南京事件当時記載したメモは存在せず、南京事件について被告東が記載したもので最も古いものは、昭和一三年一二月ころ便箋に記載された回想録であり、『東日記』の南京事件当時の部分は、右回想録等をさらに数倍に膨らませて記述した文章で、創作性が強く、戦場で記載された第一次的資料とはいえない。

(二) 被告下里らは、第三中隊の被告東以外の生存兵士に対し、本件記述に関する事実確認を行っていない。

「第三中隊史」に掲載された『東日記』の一部は、本件各記述を含んでおらず、右中隊関係者以外の者への「第三中隊史」の寄贈に際しては、『東日記』に誤りが多い旨の森英生元第三中隊中隊長による注意書きが添付された。また、多くの生存兵士や歴史家が『東日記』に矛盾点が多いことを指摘していた。

(三) 本件各記述の内容は、〈1〉厳重に管理されている郵便袋が道端に落ちていたとされていること、〈2〉大人を入れられる程大きくない郵便袋に大人の中国人を入れたとされていること、〈3〉ポンプ、バケツ等を携帯していない兵士が自動車からガソリンを抜いて中国人に掛けたとされていること、〈4〉瞬時に燃えるガソリンが長時間持続的に燃えていたとされていること、〈5〉ガソリンにより燃え、人の入った郵便袋を耐熱服なしに運搬して沼に投げ込んだとされていること、〈6〉長時間燃焼しているにもかかわらず郵便袋や紐が焼失し、中の人間が出てきたとされていないこと、〈7〉燃焼中の郵便袋に手榴弾を結び付けるという危険極まりない行為を行ったとされること、〈8〉手榴弾は四、五秒程度で破裂するのに、これを数個郵便袋の紐に結び付け、袋を沼に投げ込んだとされていること等客観的に不自然である。

第三証拠〈略〉

理由

一1  被告東が、第三中隊所属の経歴を有し、昭和六二年ころ、記述1を含む書籍1を執筆し、出版社である被告青木書店が同年一二月八日ころ、これを発行したこと、被告下里が同年ころ、記述2を含む書籍2を執筆し、被告青木書店が同年一二月八日ころ、これを発売したこと、被告下里が、井口和起らと共に記述3を含む書籍3を編集し、被告青木書店が、平成元年一二月一五日ころ、これを発行したこと及び被告東が記述2及び3についての情報を被告下里に与えたこと(請求原因記載一の事実)は、いずれも、当事者間に争いがない。

2  被告下里は日本共産党中央機関誌である「赤旗」に南京事件に関する記事を連載するに際して『東日記』の引用について被告東から承諾を得ており、書籍2は連載終了後に右連載記事を単行本として発行したもので、記述2は昭和六二年九月一三日付け「赤旗」にも掲載されていたこと(丁第四号証の一から三まで、被告下里本人)、書籍1及び2は、いずれも、同年一二月八日ころ販売開始され、新聞等に併記して販売広告がされていたこと(甲第三九号証、乙第五八号証、丙第二号証、証人森英生)等に照らせば、被告東は、『東日記』中、記述2の内容が書籍2に掲載されることを予測することができたと認められ、また、前記のとおり、記述3の内容は「橋本」の名称を含めて被告東の提供した情報に外ならず、右情報の内容が書籍3に掲載されることも予測することができたと認められ、そうである以上、同被告は、右各記述についてもその情報提供に伴う責任を負う。

3  被告青木書店は、書籍2については企画と発売を、同3については発行を担当した以上、編集等にどのように関わったかにかかわらず、右各書籍についても発売又は発行に伴う責任を負う。

二  被告東が、平成四年一二月ころ、京都府での市民集会において、戦争体験に関する講演を行い、右講演に基づき、同月二〇日、中日新聞に記述4を含む本件記事が掲載されたこと(請求原因記載二の事実)は、当事者間に争いがない。

三  記述1から3までは、日本軍兵士である「西本」(記述1)及び「橋本」(記述2及び3)が中国人を殊更残虐な方法で殺戮したことを内容とするもので、右「西本」及び「橋本」兵士の社会的評価を低下させる内容のものであることは明らかである。

記述4は、福知山連隊の兵士が中国人を殴り、殺人行為をしたことを内容とし、同連隊に所属していた兵士一般の社会的評価を低下させるものであるが、特定の兵士の行為を対象とするものでなく、同連隊に所属していたというだけでは、同記述について、原告の名誉毀損を論じる余地はない。

四  原告は、右「西本」及び「橋本」が、いずれも原告を指し、これによって名誉を毀損されたと主張し、被告らは、これを争う。

出版物の表現により人の社会的評価が低下させられたかどうかは、一般の読者の通常の注意と読み方を基準として、当該表現が特定人の社会的評価を低下させるものと認められるかどうかにより判断すべく、本件においては、記述1から3までの「西本」及び「橋本」が原告と同一人物であり、原告が、記述1から3までに記載された行為をしたと理解されるかどうかで決定すべきである。

1  記述1から3までが、いずれも、昭和一二年一二月ころ、被告東の所属していた第三中隊の兵士についてのものであり、兵士の名について、記述1には「西本」、記述2及び3には「橋本」と記載され、書籍3には「或る日、橋本分隊長と竜野一等兵がぶらりと宿舎へ帰へって来た。」(二一七頁下段)、「第二少隊長は橋本伍長がとる事になった。」(二八三頁下段)、及び「橋本分隊長は二十三歳の現役下士伍長である。」(二八五頁下段)と記載されている(当事者間に争いがない)。

2  原告は、大正四年一一月二三日、京都府に生まれ、昭和一〇年一二月一日、福知山連隊に歩兵二等兵として入営し、同一一年六月、歩兵一等兵、同年一一月歩兵上等兵と進級し、同年一二月、陸軍教導学校に入校して下士官教育を受けた後、同一二年八月動員下令を受けて、同連隊第三中隊に復帰し、同年九月、右中隊第三小隊第一分隊長となり、同一二年一〇月一日、伍長に任ぜられ、同年一二月ころ、南京攻略戦、同市内外掃討戦に参加した。原告は、同一三年一月、南京を発ち、大連に上陸した際、右中隊指揮班に移り、同年四月一日歩兵軍曹となった。(甲第五号証、第一二号証の二、原告本人)

3  被告東は、昭和八年一月三一日、第三中隊に歩兵二等兵として入営し、同年八月、歩兵一等兵、同九年一一月歩兵上等兵と進級し、同年一一月、現役満期を迎えた後、同一二年九月一日ころ、召集を受けて、右中隊に編入し、同中隊第三小隊第一分隊に所属し、同年一二月ころ、南京攻略戦、同市内外掃討戦に参加した際も、右分隊に所属していた(乙第五七号証の二、丁第三号証、被告東本人)。

4  第三中隊には、昭和一二、一三年ころ、原告、橋本純二(上等兵、第一小隊第五分隊所属)、橋本道夫(一等兵又は二等兵、第一小隊第五分隊所属)、橋本喜代雄又は喜代男(上等兵、第二小隊第一分隊所属)及び橋本友吉(上等兵、第一小隊第二分隊所属)の五名の橋本姓の者が所属していた(ただし、括弧内記載の階級及び所属は、昭和一三年七月三一日当時のものである。)(乙第一号証の四、第二〇号証の一から五まで、丁第一号証)。

5  右各事実によると、記述3の対象とされた昭和一二年一二月当時、原告は、数え年で二三歳、階級は伍長、第三中隊第一分隊の分隊長であり、被告東も同じ第一分隊に所属しており、同中隊の中で橋本姓の伍長は一名であり、1に認定した書籍3の各記載を併せ読むと、記述3における「橋本」は、一般の読者の通常の注意と読み方を基準としても、原告を指し、原告が同記述に記載された内容の殺人を犯したと理解され、これにより原告の名誉は毀損されたと認められる。

しかしながら、前記のとおり、右殺人行為をした者は記述1においては「西本」、記述2においては「橋本」と記載され、書籍1及び2において、右「西本」及び「橋本」の階級、所属等同人を特定するに足りる記載はなく、被告東も、書籍1において一部の兵士の氏名について仮名を用いて著すとしており(乙第五八号証三頁)、右「西本」と原告の姓とは一字を共通にし、右「橋本」と原告の姓が一致することを考慮しても、なお、一般の読者の通常の注意と読み方を基準にするときは、右「西本」及び「橋本」が原告を指し、原告が右各記述に係る殺人行為をしたと理解されると認めることはできない。

もっとも、書籍1から3までを併せて読めば、記述された行為が同一であることから、書籍1の「西本」及び書籍2の「橋本」と書籍3の「橋本」とが同一人物と理解されることは推認し得る。しかしながら、書籍1から3までが、書籍の性格、販売広告の方法等から、読者が併せて読むことを想定して出版されたものと認められる場合等を除き、名誉毀損の成否は、出版された書籍ごとに判断されるべきものであり、ある出版物の出版によって他の出版物の執筆、発行、販売等が名誉毀損に当たるとされるものではない。

被告下里らは、書籍3『東日記』中の「橋本伍長」、「橋本分隊長」及び記述3の「橋本」の三者の同一性は、記載の位置関係に照らし、第三者にとって判断できず、昭和一二年一二月当時、第三中隊には「橋本」という者が五名おり、記述3の「橋本」と原告との同一性も判断することはできなかったと主張するが、前記のとおり、第三中隊の橋本姓の分隊長で、伍長であった者は一名であり、一般の読者の読み方を基準としても、右三者は同一人物について記載されていると理解されると認められ、右主張は、失当である。

五  被告らの抗弁について

1  記述3は、南京事件の際に行われた日本兵による中国人殺害行為を内容とするもので、公共の利害に関する事項に当たり、右記述を含む書籍3の編集又は発行が専ら公益を図る目的の下にされたことは明らかである。

2  被告らは、記述3の内容は真実であると主張する。

日本軍が南京を占領した前後を通じて、正規軍間の戦闘行為によらずに、多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害されたとの事実については、殺害された者はさほどの多数ではなかったとする見解から異論が述べられているにしても概ね否定し難い事実とされているものの、殺害された者の実数、対象者、殺害の時期、理由、態様等については未だその全容が把握されるに至っておらず、無抵抗な捕虜や非戦闘員を無差別に殺害したとする説、抵抗する軍人、民兵等の抵抗を排除するため殺害したとする説、軍が組織的に、あるいは黙認して殺害させたとする説、軍の上部機関からの指令により捕虜を多数殺害したとする説、中国軍民の抵抗が激しかったため激昂した兵士が上官の制止を無視して殺害に及んだとする説など様々な見解があることは、一般に知られているところである。

当裁判所は、本件を通じ、南京事件の歴史学上の論争に判断を加えることを期待されている訳でも、これをよくするものでもなく、原告が記述3の内容の行為をしたと認められるかどうかについて判断を求められているものである。

記述3は、要するに、原告が、中国人を袋詰めにし、蹴る等の暴行を加え、壊れた自動車から取り出したガソリンを掛けて点火し、中国人が燃え上がる袋の中で恐怖のわめきをあげ、袋ごと飛び上がり、転げるのを面白がり、火玉のように転げ回る袋に付けた長い紐に手榴弾を結び付け、袋ごと沼の中に放り込み、袋が沈み、波紋が静まろうとする時に手榴弾が水中で炸裂したという情景を描写している。

原告が記述3にある残虐な行為をしたことについては、これに沿う乙第五号証の四の記述及び被告東本人の供述がある。しかしながら、利用されたのが郵便袋であったかどうかの点をおいても、〈1〉原告が、どのようにして自己が火傷を負う危険を避けながら、引火性が強く、取扱いに注意を要するガソリンを袋にかけ、点火し、さらには、燃え上がり、火玉のように転げ回る人間の入った袋を沼に放り込んだか、〈2〉原告が、どのようにして手榴弾の炸裂による自己の死傷の危険を避けながら、燃え上がり、転げ回る袋に付けた紐に手榴弾を結びつけ、袋を沼に放り込んだか、の点につき、乙第五号証の四その他『東日記』と呼ばれる手記(乙第四号証、第五号証の一から四まで、第六号証の一から三まで、第七、第八号証)の記載中には何ら具体的な描写がなく、被告東は、何ら具体的な事実を再現して供述することができない。

原告のしたとされる行動は、残忍極まりないものであるが、ガソリンの引火、手榴弾の炸裂等自己の生命の危険を冒してまでこれに及ぶとは考え難いもので、右のような危険がある行動であることも誰の目にも明らかなものである。殊に、当時日本軍が使用していた九一式曳火手榴弾(日本製)は安全詮を外し、突起部分を固いものに打ち付けて点火した後、四、五秒程度(柄付手榴弾でも同様。九一式曳火手榴弾は七秒程度)で炸裂し、中国軍が使用していたチェコ製又はドイツ製の手榴弾は点火後、四、五秒以内には炸裂する(甲第二四、第四〇、第五八号証の一、二、証人森)のであり、いずれにせよ、手榴弾の炸裂までに要する時間は短く、前記原告のしたとされる行動は、自己の死傷の危険も大きいものであった。

原告が無謀にも大きな危険を冒し、又は巧みにこれを避け、前記行動に及んだのであれば、右危険を冒すに至った経緯、又はこれを巧みに避けた方法について、これを見ていた者に強い印象を与えずにはおかない性質のものである。それにもかかわらず、原告のした前記行動を目撃し、紐に結び付けた手榴弾が二発であることをも記憶しているとする被告東において、右の点について具体的な事実を供述することができず、また、この点について乙第五号証の四ほか『東日記』中に何らの記載もないのは、五〇年余の時を経過した後の供述であることや戦地での出来事として記載されていること等を考慮しても、なお、不自然というべきである。乙第五号証の四の記述及び被告東の供述は、到底採用の限りでなく、他に原告による右残虐行為の裏付けとなる客観的証拠はなく、原告が残虐行為をしたことを内容とする記述3は、真実と認めるには足りない。

3  次に、被告下里らが記述3の内容を真実と信じるについての相当の理由の有無を検討するに、書籍3の出版に至る経過について、次の事実が認められる。

(一)  被告東は、昭和一二年八月、第三中隊への召集を受け、出発から同一四年一一月病院船で帰国するまでの間の出来事を大学ノート、原稿用紙、便箋用紙等に書き留め、又は佐々木健一等に宛てた手紙に認め、また、右の間、中国の地図、新聞や中国軍の宣伝ビラ等を収集し、抗日運動を示す伝単、歌等を筆写し、これらを基に、同一五年から一六年ころにかけて、『東日記』を作成した(乙第四号証、第五号証の一から四まで、第六号証の一から三まで、第七、第八号証、第九号証の一から五まで、第一〇号証の一、二、第一一号証の一、二、第一二号証の一、二、第一三号証の一、二、第一四、第一五号証、第一六号証の一から三まで、第一七号証、丙第四号証から第一一号証まで、第一六号証、被告東本人、被告下里本人)。

(二)  被告東は、昭和五七年ころ、福知山連隊史編集委員会の編集にかかる「第三中隊史」に『東日記』の一部(本件記述に当たる部分は含まれていない。)を掲載し、同六一年ころ、京都府の丹後町婦人会の依頼により、同会が戦中戦後の体験談等を纏めて作成した小冊子「平和への願い」に右日記の一部を投稿し、同六二年春ころ、右小冊子を目にした「平和のための京都の戦争展」実行委員会事務局長吉田保の求めにより、右展覧会への展示のため右日記を貸与した(乙第二号証の一、二、第四六号証、被告東本人)。

(三)  被告下里は、昭和六二年三月ころ、吉田から受け取った『東日記』を含む三名の福知山連隊所属下級兵士の日記類等の写しを読み、吉田と共に被告東を訪ね、『東日記』の原本、前記(一)のメモ類、同被告が中国で入手した宣伝ビラ等の資料を閲覧した。

被告東は、被告下里の説得等により、同年七月六日、『東日記』を公表した。(乙第三号証の一から三まで、丙第二号証、第一二号証の一、被告下里本人)

(四)  被告下里は、吉田から右日記類等の写しの提示を受けた後、南京事件に関する資料の収集を開始し、『東日記』のほか、内田巌上等兵の日誌、増田六助上等兵の日誌及び手記、上羽武一郎作成の陣中メモ及び日記、田茂井滋機少尉の日誌、井上上等兵の日誌、中島今朝吾第一六師団長(中将)の日記、森第三中隊長(中尉)の回想記、第二〇連隊第四中隊陣中日誌(「戦闘詳報」)、「福知山歩兵第二〇連隊史」と題する書籍、「福知山歩兵第二〇連隊第三中隊史」と題する書籍等を集め、これらを基に、歩兵第二〇連隊に関して、昭和六二年八月一四日から同年一〇月一日まで、「赤旗」誌上に「隠された聯隊史」と題する記事を連載し、若干の加筆訂正をして書籍2をまとめ、同年一二月八日ころ、被告青木書店から発売した(丙第二号証、第一二号証の二、三、丁第四号証の一及び三、被告下里本人)。

右増田、内田、田茂井、上羽等下級兵士の日記等は、南京攻略の過程で、敗残兵、投降兵の銃殺等日本兵による中国人の殺害行為が行われたことを記録している(丙第一号証の四、第二、第一四、第一五号証、丁第三号証)。

(五)  被告青木書店編集部員桜井は、それまでに南京事件関係の書籍の出版を担当したことがあり、「戦闘詳報」を閲読しており、右「赤旗」連載中の「隠された聯隊史」を読んで『東日記』の存在を知り、その写しを被告下里から入手し、昭和六二年初秋ころ、被告東宅を訪れ、『東日記』の原本、前記メモ類や資料等を閲覧し、被告東に対して書籍1を執筆することを勧めた。桜井は、被告東の依頼により、戦場の日時場所等を特定する作業を行い、南京事件関係各資料を検討し、『東日記』の記載の一部が「中島第一六師団長日記」の記載と一致していることを確認したほか、郵政省所轄の博物館の資料室に赴き、大人を入れられる大きさの郵便袋があることを確認した。(乙第五八号証、丁第五号証、第六号証の一から九まで)

(六)  被告下里は、株式会社機関誌共同出版(現 株式会社つむぎ出版)の企画により、前記(四)記載の各資料に、歩兵第二〇連隊第三機関銃中隊員であった北山与の日記、右連隊戦銃隊員であった牧原信夫上等兵の日記等の資料を加え、井口和起、木坂順一郎と共に、南京事件又は日中戦争の研究のための資料として書籍3を編集し、右書籍は、機関誌共同出版による製作を経て、平成元年一二月五日、被告青木書店から発行された(丁第三、第五号証、証人桜井、被告下里本人)。

右各認定事実の下では、被告下里らが右記述3の内容、特に、原告が中国人を袋に詰めて、ガソリンをかけて点火し、手榴弾を結びつけて沼に放り込んだという残忍な殺人行為をしたことについて、前記のとおり、明らかに不自然な描写があるにもかかわらず、郵便袋の大きさの点を除き、これを被告東に質問するなどして質したり、その裏付けを確認したりした形跡も窺うことができず、これを真実であると信じるについて、相当な理由があったと認めることはできない。

被告下里の主張中、歴史の資料である書籍3の性格に鑑み、記述3の内容の真実性を検討するまでもなく、これを公にすることが容認されるかのように主張する部分が見られるが、歴史、ジャーナリズムいずれの分野も、事実の確認が前提となるべきことは論をまたず、学術的資料であるがために提供された資料の内容を点検することなく出版の対象とすることが容認されるものでないことも、多言を要しない。

よって、この点に関する被告下里らの抗弁も、理由がない。

五  損害及び名誉回復措置について

原告は、記述3を含む書籍3が出版されることにより、記述3の内容のような残虐な行為をしたものとして、社会的評価を低下させられて名誉を毀損され、精神的苦痛を被ったと認められる。

書籍3は、学術研究書的色彩が強く、発行部数は限られる反面、読み物と異なり、図書館等に配置され、継続的に読まれるものであること、その他本件に顕れた事情を総合すると、原告の右の精神的苦痛を慰謝するための金額としては五〇万円が相当である。しかしながら、書籍3の前記性格等に鑑み、右慰謝料の支払のほかに、謝罪広告の掲載によって名誉の回復を図る必要があると認めることはできない。

六  以上のとおり、原告の本訴請求は、被告らに対し、各自、慰謝料五〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成五年四月二〇日(被告東に対する訴状の送達の日の翌日)又は同月二一日(被告青木書店及び同下里に対する同前)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから、これを認容し、その余は、いずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官 森倫洋 裁判官 佐久間邦夫は転補のため、署名及び押印をすることができない。裁判官 江見弘武)

別紙一 〈省略〉

別紙二

1 どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。

つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。

泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。

心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。

西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。

袋の紐を持っていた西本は、「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。

水がごぼっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。

こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。

次の時にはこのようなことは少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった。(書籍1百六頁から百八頁まで)

2 東史郎上等兵の陣中手記は、この時に目撃した一事件を次のように書いている。「法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒っていた。道路の向う側に沼があった。何処からか一人の支那人が引っぱられて来た」

「戦友達は、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、橋本は残酷な一つの提案を出した。つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである」

「泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのように蹴られ、野菜のように小便をかけられた」

「ぐしゃりとつぶれた自動車の中から、ガソリンを出した橋本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるようにした」

「心ある者は眉をひそめて、此の惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。橋本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、渾身の力で袋が飛びあがった。袋は自から飛びあがり、自から転げた」

「戦友のある者達は、此の惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ火玉のように転げまわった」

手榴弾を二発「袋の紐を持っていた橋本は紐に結びつけ――オイ、そんなにあつければ冷たくしてやろうか――と言うと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中ヘ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった」。

東上等兵はこのあと、「次の時には此のような事は少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった」と、自分たちのことを書いている。(書籍2百頁から百一頁)

3 中山通にある最高法院は灰色に塗った大きな司法省である。法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒ってゐた。道路の向ふ側に沼があった。何処からか一人の支那人が引っぱられて来た。戦友達は、仔犬をつかまえた子供のやうに彼をなぶってゐたが、橋本は惨酷な一ツの提案を出した。つまり、彼を袋の中へ入れ自動車のガソリンをかけ火をつけやうといふのである。泣き叫ぶ支那人は郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり結[締]められた。彼は袋の中で暴れ泣き怒鳴った。袋はフットボールのやうに蹴られ、野菜のやうに小便をかけられた。ぐしゃりつぶれた自動車の中からガソリンを出した橋本は袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるやうにした。

心ある者は眉をひそめて此の惨酷な処置を見守ってゐる。心なき者は面白がって声援する。

橋本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。と思ふと、袋の中で言ひ知れぬ恐怖のわめきがあがって、渾身の力で袋が飛びあがった。袋は身づから飛びあがり身づから転げた。

戦友のある者達は、此の惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげて火玉のやうに転げまわった。袋の紐を持ってゐた橋本は、――オイ、そんなにあつければ冷たくしてやらうか――と言ふと、手榴弾を三発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み波紋のうねりが静まらうとしてゐる時、手榴弾が水中で炸裂した。

水がごぼっと盛りあが[っ]て静まり遊びが終った。こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ橋本の惨忍性に私達があきれただけである。次の時間には此のやうな事は少しの記覚[憶]も残さず鼻唄を唄って歩いてゐる一隊であった。(書籍3三百五頁)

4 「どこからか連れてきた中国人を殴り、けり、背負い投げを食らわせ、郵便袋に閉じ込めてガソリンを掛け火を付けた。袋ごと跳び上がって転げていくのを、皆が面白がって見ていた。“殺人遊び”だった」

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